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モチ坂
nishifu | 2014/2/3 21:32
写真登録: nishifu




モチ坂(もちざか)
『ここは坂の坂上に位置し、崕雪頽(がけなだれ)という急斜面を蛇行して下る坂道の跡がわずかに残されている場所です。坂は上駒込村から上尾久村方面へと向かう上尾久村道の途中に位置していました。鉄道が通るようになると坂下には踏切が造られ、大正時代の末から昭和の初期には跨線橋がつくられるにいたりました。モチの木が坂上にあったといわれ、明治10年代の『東京府誌・村誌』にはモチ坂とありますが、この名称は後にはあまり使われなくなっていったようです。』
北区教育委員会の標識(平成7年3月)より。
『かつて坂道が存在したところは、鉄道敷設部分にあたり、現在ではその様子を見ることができません。』
北区の坂道<http://www.city.kita.tokyo.jp/misc/h...
『黐坂(もち坂)
中里三16/20 女子聖学院の北東、JR中里アパート西脇から線路への幻の坂
坂上の痕跡のみで、坂の途中は全く欠如してしまった。鉄道開発にともない消失した坂道である。
(中略)坂道は崖地であったから斜めに曲がり下った農道程度であった。上野から開通したばかりの中山鉄道(高崎線)一本のこの地図にはっきりしている。鉄道線路から東は水田が広がり尾久の部落を包み込んでいた。この急坂の名は尻餅をつきつき下ったことに因ったと思われる。反対に上るほうからすれば、いわゆる胸突坂であったのである。(後略)』
東京の坂風情(2001年4月14日、著者:道家剛三郎、発行:東京図書出版会)より。
別名: 黐坂
『ここは坂の坂上に位置し、崕雪頽(がけなだれ)という急斜面を蛇行して下る坂道の跡がわずかに残されている場所です。坂は上駒込村から上尾久村方面へと向かう上尾久村道の途中に位置していました。鉄道が通るようになると坂下には踏切が造られ、大正時代の末から昭和の初期には跨線橋がつくられるにいたりました。モチの木が坂上にあったといわれ、明治10年代の『東京府誌・村誌』にはモチ坂とありますが、この名称は後にはあまり使われなくなっていったようです。』
北区教育委員会の標識(平成7年3月)より。
『かつて坂道が存在したところは、鉄道敷設部分にあたり、現在ではその様子を見ることができません。』
北区の坂道<http://www.city.kita.tokyo.jp/misc/h...
『黐坂(もち坂)
中里三16/20 女子聖学院の北東、JR中里アパート西脇から線路への幻の坂
坂上の痕跡のみで、坂の途中は全く欠如してしまった。鉄道開発にともない消失した坂道である。
(中略)坂道は崖地であったから斜めに曲がり下った農道程度であった。上野から開通したばかりの中山鉄道(高崎線)一本のこの地図にはっきりしている。鉄道線路から東は水田が広がり尾久の部落を包み込んでいた。この急坂の名は尻餅をつきつき下ったことに因ったと思われる。反対に上るほうからすれば、いわゆる胸突坂であったのである。(後略)』
東京の坂風情(2001年4月14日、著者:道家剛三郎、発行:東京図書出版会)より。
別名: 黐坂
距離: 3m | 高低差: 0.43m
東京都 北区 上中里一丁目 7-7
緯度:35.743610 経度:139.752156
小土呂坂
夢見坂
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